つらつら日記

無料オラクルカードを引いて内観。

自分の制限

 

ぱっか~んはプチだったので

まだ気付いてない事があるんだ。

 

 

現実が変わってこない。

それが証拠だ。

 

 

なのでぱっか~んを誘発するため(それ自体が間違ってるかもだけどw)

自分が禁じている事を書き出してみようと思う。

 

 

 

 

タメ口

仕事をやめること

なにも家事をしないこと

ゲームを一日中すること

子供に興味を持たないこと

ミニバスのために時間を使わないこと

 

 

 

ん~、ここまで普通。

わからん。

まだ何かある気がするな。

 

 

 

あ、私の前提はさっきのを反転させたらいいのか

 

 

敬語を使う

仕事をする(会社に勤める)

家事をする

ゲームしない

子供に関心を向ける

ミニバスのため自分を使う

 

 

 

ふーん。

典型的な普通の人、ですな。

ただ少し自己犠牲があるのかも。

 

 

自分を殺して人の為に・・・的な。

 

 

 

殺して・・・・?

 

 

 

自分を?

 

 

 

そうか、私の中で私は私に殺されているんだね。

やっぱり自分を大事にしてないってことか。

 

 

じゃあ

何がしたいの?

 

 

自分を大事にするって自分のしたいことを

したいようにやるってことでしょ?

 

 

 

 

いや、これは違うな・・・

むー。

 

眉間にシワ寄せて考えてもぱっかんしないよな。

 

 

 

最近思っていること

 

 

 

私は頼る人がいる。

私はだんだん身軽(いろいろ役も終わり)になってきた。

適当でも大丈夫。

私はけっこう好かれている。

いろんな人と気軽に話せるようになってきた

面白いらしい。

 

 

思えば

子供の頃から 母や姉を楽しませるような

行動をしていたなあ。

 

オスカルが銃弾で死ぬときのマネとかさ

変なダンスとかさ

 

 

アホだろ、自分。

 

 

 

 

それが自分の役目だと思っていた。

たまに淋しそうになる母親と

あまり喋らない姉と

2人を楽しませるのは私の役目。

笑顔でいて欲しい。

 

 

子供ながらに気を使っているっていうか

けなげや(TωT)

 

 

 

本当はもっと甘えたかった。

 

でも

 

でも・・・

 

今思い出すのは 小学校のときのリビング。

テレビでプリンプリン物語を見ながら

こたつに配膳をしている私。

 

姉もいて

母がキッチンにいて

全体的にオレンジ色だ。

 

 

父は単身赴任でいないから

女3人の わきあいあいとした食事。

 

私はあの光景を再現したいのか?

 

 

一番楽しかった時期。

 

 

その後は姉は大阪へ行き

母も仕事で

私は常に一人になった。

 

 

それは成人しても

ずっと続いた。

 

 

大きな家に

ひとりぼっち。

 

 

家にいるのが嫌で

高校のときは友達や恋人と毎日遊びに出て

常に誰かと一緒にいた。

 

就職して車を得た私は

毎晩のように

友達と遊びに行き

会社の飲み会もあり

ずっと家にいることはなくなった。

 

 

なので建て替えた家は

常にがらんとしていた。

 

 

ひとりぼっちはいやだ。

 

いやだ。

 

とずっと思っていた。

 

 

 

私は母の何かを許せてないのだろうか。

 

まだ気付いてない、蓋をしたものがあるのだろうか。

 

 

 

今出てきた言葉

 

 

 

お母さん泣かないで

私がいるよ

そばにいるよ

 

 

 

 

母のことをかわいそうだとおもっていた証拠だ

 

 

 

情緒不安定な母

 

 

 

その原因は実の母と早くに離されたからであり

すぐかんしゃくを起こす父親に育てられたからであり

若い人を嫁にもらって その人の愛情が薄かっただとか

いろいろ聞いたけれど

きっと愛されていると感じる事もなく

20歳近く離れている小さな妹弟を横目に見ながら

ずっと育ってきたのだろう。

 

 

でもそれは母の問題で

私が引き受けることではない。

 

 

淋しい心を助けたい と思うことは

妖怪かわいそうに餌をやることだ。

 

 

私は

私の幸せを大切にするのだ。

 

 

幸い

親友もいて

父も気遣ってくれ

元夫も何かと気遣ってくれる。

 

私の周りには

愛がたくさんある。

 

 

とても愛されている。

 

私が幸せなら

両親も子供も幸せだ。

 

 

そして

今とても幸せだ。

 

 

 

 

 

私が誰かを助けたいと思う

 

それは

自己犠牲

であり

傲慢

である。

 

 

なにも

なにも

良いことはない。

 

 

人は勝手に助けられる。

自分自身に。

 

 

反転すれば

自分自身のみにしか救えない。

 

 

私たちは

情報から何を受け取るか、であり

それは個人個人によって反応する場所が違うのだ。

 

 

 

ぢんさんが発信していることは

その典型であり

そこからなにがひらめくかは

人それぞれだ。

 

なので助けようとか

救おうとか

そういうスタンスは全くない、とおっしゃっている。

 

 

そう、自分が全て、だ。

 

 

 

私は 上記を書くことによって

何を正当化しようとしているのか・・・・

 

 

 

 

 

 

母に対して

一緒に住まないことに対して

面倒見ないことに対して

 

かなりの罪悪感を背負っている、ようだ。

 

 

 

 

 

母を見捨てていい

 

 

母を捨ててもいい

 

 

 

 

これだ・・・・・・・・

 

 

 

 

 

これ・・・・・・・・

 

 

 

 

 

 私はずっとかわいそうな母を捨ててはいけないと思っていた

かわいそうだから。

泣くから。

すがってくるから。

 

 

でも捨ててもいい

捨ててもいいんだ

 

 

 

そして

その裏には

自分も子供に捨てられるかもという

怖れがあるようだ。

 

 

自分が母にするように

子供も私を捨てる

捨てられる

 

そう怖れている。

 

 

 

私は母を捨ててもいい。

私は子供に捨てられてもいい。

 

 

私は母を捨ててもいい

私は子供に捨てられてもいい

 

 

 

 

 

 

・・・

 

 

 

 

なにか

 

 

 

すごく

 

 

 

すごく

 

 

 

自由だ!

 

 

 

 

ふりーだむ!!!!

 

 

 

 

怖れではなかった!

 

 

 

 

子供に捨てられたと想像したら

 

 

素晴らしく自由を感じた!

 

 

 

 

 

自由!

 

 

 

 

 

そうか。

子供にも今私が思っているような

罪悪感を感じさせることは嫌だと思っているのか。

 

 

だから捨てられたら

子供の重荷がなくなるって思って

ふりーだむなんだ!

 

 

 

自由サイコーーーーーーー!

 

 

 

 

 

 

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